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闘うべき時 [映画の言葉]

今こそ、その力を使って闘うべきだわ

Now's the time to use that power and to fight.

                         映画ライムライト」より



この地球が誕生して約46億年、原始生命体が誕生して40億年と言わ
れています。さらに宇宙の歴史に心を馳せれば、何とももはや眩暈が
するような果てしない時間になりましょう。そうしたものと比べれば、私た
ちがこの世に生きている時間など、ほんの一瞬であり束の間の時間に
しか過ぎません。正にまばたきの一瞬と言えます。

その束の間の人生を、思いも寄らぬ出来事に翻弄されたり、意気消沈
して全てを投げ出してしまうのは勿体無いことです。とはいえ、そうした
外部のどうにもならんことに悶々としがちなのも私たちの常です。だから、
何度でもこうして同様の趣旨の言葉を繰り返し繰り返しわが身に言い聞
かせながら、あなたにお伝えしているわけでもあります。

そして、何を隠そう、今私自身が突発的な難事の真っ只中にいるからこ
そ、なお更自分自身に強く言い聞かせているのです。いや、厄介だとか
難しいという言葉を安易に使うこと自体がいけないかもしれません。逆に
この問題は簡単だ」と思い込んだほうが基本的にはいい展開を生む
ものでしょう。

自分の世界をかき乱す物など、いたるところに転がっています。問題は
いかにその時の感情や行動を、望む未来に繋がる様に「選択」できる
かです。昨日も確認したように、自分自身の選択・決断・行動を尚のこと
意識的にする必要性を感じます。

冒頭の言葉は、チャップリン映画の集大成とも目される「ライムライト」
(1952年に制作)の中でチャップリン演じる落ちぶれた老道化師カル
ベロが、自殺から救ってやった踊り子のテリーから、逆に励まされてい
る有名な場面です。私自身がいささか苦境にあり、ややもすれば崩れ
落ちそうな気配もあるので久しぶりに観ることにしたのです。

ここでいう「その力」とは、地球を動かし木を成長させるような宇宙の力
を指します。そんな力が君の中にはあるんだと言って、かつて打ちひし
がれていたテリーをカルベロは励ましたわけです。誰もが持つその偉大
な力を、どこまで信じて生き続けられるのかということが鍵でしょう。

Now's the time to fight.    Keep fighting!

「今こそ、闘うべきよ!」「闘い続けるべきよ!」という簡単な英語の言葉
の響きが身体全体に共鳴して後々まで強く残った気がします。

何が起きようとも「自分の世界を守り」、人としての矜持や希望を失わず
に歩んでいくのは難しいことですが、同時に簡単でもあるのです。そうで
す、自分の世界を守るのは簡単だ、と先ずは言い切る強さを持ちたいと
思います。

自分を貶める選択、望まぬ未来に繋がる選択は断固拒否すればいい
のです。ただ、そういう姿勢が窮屈になったら出来うる限りそれを望む
ようにするという弾力性も必要でしょう。いずれにしても、「選択の鍵」を、
今こそ自分の望む未来に繋げる形で使うということなのです。今こそ、
闘うべき時なのです。



「選択」という鍵 [決断]

この世は舞台だ。誰もが役者にすぎない



以前にも触れたことではありますが、このブログはいわば「自分の
理想を演じる舞台」でもあります。より正確に言えば、理想の自分、
目指す自分を演じる観念的舞台だということでしょうか。どういう役
を演じようが勝手なわけですが、できるだけ自分の望む未来に近
づける様な呟きを重ねていきたいものです。使う言葉がその人の
人生を彩り創り上げるとも言えるわけですから。

冒頭の言葉は、シェークスピアが「お気に召すまま」で言わせしめた
有名な文句でありますが、実際私たちはそれぞれの人生の舞台で
主役を演じなければいけないわけです。監督・脚本・プロデュース等、
全部自己責任で行って演じていかなければいけません。

とはいえ、人生は思うに任せぬ突発的事態がままあるもの。そうした
事態への対処は、自分の意志と決断で選択していかねばならないわ
けです。予想外の災難に見舞われることは如何ともしがたく、こちら
は私たちが制御できません。

でも、そうした事態にたいする自分の態度・方針は自分でコントロール
して選択できるわけです。闘うのも逃げるのも自分の裁量で選択でき
るというわけです。ジェームス・スキナー氏は、この「選択」こそが人生
の扉を開ける鍵だと言いきります。

そして、常に突きつけられるこの選択の問いに対して、安楽な道を選
んでしまいがちなのが人の常でもあります。自分で手綱を握れる部分
で、楽な道を選択して手綱を外してしまうということがままありますね。


これからがチャンスだ!強くなるための絶好の機会だぞ!

この言葉は、学生時代のある一齣のものです。空手の稽古の時の
一風景です。練習が身体に応えてきて、皆が青息吐息状態の時に、
指導者はお決まりの文句で上記の様に叱咤するのです。

ほんと、なるほどその通りなのです。でも、大抵の人間は適当にその
場を持たせるという選択をしてしまいます。どうしても駄目なら、いい
加減にやるのでなく外れなさいというのが稽古方針ですが、つまらぬ
見栄や体裁などで、なかなかそうできないわけです。

そんな選択をしていると、どうなるかです。適当にみんなに合わせて技を
出すだけのだらだら練習が習慣化するとどうなるかという問題です。端的
には、上達に繋がらないだけでなくどんどん下手になるわけです。練習す
ればするほど下手になるというわけです。

誤魔化して中途半端に取り組む意識が、それこそ悪い意味での技にな
ります。技といった場合に実体的な身体の技だけでなく、それを使う認
識面の技も問題になってくるという考え方ですね。

心身ともに厳しい状況に置かれていて、更に厳しい道を選択することは
容易ではありません。しかし、こここそが正に正念場であり、強くなれる
か否か上達するか否かの瀬戸際なわけです。これは武道でもスポーツ
でも芸術でも、何の世界でも言えることでしょう。

安全な道と危険な道があったら、迷わず危険な道を選ぶ



こう言い放ったのは、昨日も触れた岡本太郎です。生まれながらの叛骨
者であり、挑戦者の如き太郎ならではの言葉です。その通りに命懸けで
スキーをしたり、彼が愛した諏訪の御柱祭りで命懸けの木落しの行事に
参加しようとして、必死に止められた逸話も残っているわけです。

なかなか太郎のような「選択主義」を持つことは出来ません。そしてそれが
必ずしも良いこととは思いません。とはいえ、人生の舞台でいかなる選択・
決断をしていくかということは誰にとっても極めて重要事です。だからこそ、
そこを真剣に捉え返して、自ら目的意識的に選択・決断をしていくということ
が求められるわけでしょう。その為にこそブログを上手に役立てていきた
いと思うわけです。

心機一転 [挑戦]

テリ画像1 259.JPG

 岡本太郎 の書「挑む」
   自由奔放で書の既成概念をぶち壊す大胆な筆致に、
   「太郎精神」面目躍如か。太郎の気魄が迫ってくる。

一旦ご破算と相成っても、どこからでもいつからでもやり直しがきく
というのが、私たちの人生というもの、と言い聞かせながら今まで
歩んできました。そうです、何度でも再スタートを切っていいのです。
無実の罪で終身刑になった「ショーシャンクの空に」の主人公が呟
いた様に、夢や希望は誰にも奪えないわけです、自分で諦めさえし
なければ。どんな最悪の状況でも等しく未来だけは厳然とあります。

このブログにしても、何が何でも一年は継続するという強い思いを
抱いて、「とにもかくにも書く」という至上命題の下、書き続けてきた
わけです。その意味では、7ヶ月で途切れたことは残念ですが、済
んだことは済んだこと。全てを一新して、まっさらな気持ちで新たな
一歩を踏みだしていきたいものと思います。

何をブログ如きで偉そうなことを言いおってという声もあるかも知れ
ませんが、改めてこちらのブログの内容と基本姿勢について簡単に
確認しておきたいと思います。昨年の10月16日の「一日一撃ブロ
グについて」で次の様に認めました。

《絶望の極であろう、ナチスの強制収容所での体験をもとに著わした
「夜と霧」のヴィクトール・フランクルは言います。
人は己が運命に対して、 自分の好きな態度をとる自由を持つ」と。

そういった自由な世界の中で、
自分の一時の気まぐれで怠惰な感情に流されず、
自分の望む未来に繋がる選択・行動をしていく。
そのための自分への檄文を日々綴っていきます。》

とまあ、かくの如く宣言しているわけです。別段これに修正する必要は
感じません。自分の人生に対して、自分の好きな態度を取る自由とは
選択の自由」ということですが、瞬間瞬間の選択の積み重ねとして
現在の自分が今ここにいるわけです。

素晴らしい部分も、駄目でどうしようもない部分も全部含めて、今までの
自分自身の選択の結果という厳しい現実を肯定しなければいけません。
そのもとで、新たな決意決断をもって、自分の望む現実に一歩でも近づ
いていけるような選択をしようではないかということです。

冒頭に掲げた岡本太郎氏の「挑む」は、岡本太郎記念館で太郎氏の書
を特集した時のものです。この記念館の驚くべき特徴の一つは、受付で
勝手に写真を取っていい」と言われることです。

芸術作品を開かれたものとし、個人のものとして閉じ込められることを
嫌った太郎。ゆえに、芸術作品の売買に批判的で自らの作品も頑とし
て売ろうとしなかった太郎精神を感じるわけです。太郎氏ほどの評価
があれば相当な資産が築けたでしょうが、作品を売ることを一切拒否
し自分の主義を貫いて旅立ったわけです。

太郎は次の様に言います。

人生に挑み、本当に生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって
運命をひらくのだ。それには心身とも無一物、無条件でなければな
らない。……
今までの自分なんか、蹴トバシてやる。そのつもりで、ちょうどいい。
                          「自分の中に毒を持て」



済んでしまった過去にうじうじと縛られて悩むのが人の常ですが、
そんな自分は蹴とばせということです。どんな選択をしようが個人
の勝手ですが、それでは望む未来への道は遠ざかるばかりです。

ということで、「すべては今日から、すべては今この瞬間この場所
から」という新たな思いで、「健康と自立(自律)」を基本テーマ
にして自分への檄文を綴っていきます。


お知らせ

およそ7ヶ月継続してきた本ブログですが、諸事情により
今週お休みさせて頂きます。

いつもご訪問いただいている皆様には、心から感謝申し上げます。
また再開の折、よろしくお願い致します。

どうもありがとうございます。

勝者は決して諦めない  [言葉]

勝者は決して諦めない 
Winners never give up.
                             ピートグレイ

右手一本だけで血の滲む練習をして、アメリカメジャーリーグ
プレーヤーにまでのし上がった人の言葉ですね。片手でバット
コントロールして振り回すなんて信じ難いでしょう。

そして、守りの時はグローブでボールを捕ったら即座にグローブ
を脇にはさんでボールを中から取り出して送球したと言うのです
から、唖然ですね。

彼は6歳の時、不慮の事故で右腕を失いながら、その夢を持ち
続けたわけです。時に諦めや絶望の谷底に突き落とされること
もあったと思います。それでも多くの困難を乗り越え、遂には小
さい頃の夢であった大リーグの選手になり、メジャーの打席に
立ったわけです。

僅か数行で簡潔に書いてしまうと申し訳ないのですが、いばら
の過程が当然そこにはあります。興味を持たれた方はお調べ
になってください。中学の教科書によっては彼の話が取りあげ
られているようです。

それと、今、検索してみるとgive upよりも quitを使っている人が
多いようですね。この言葉を知ったのは1993年ですが、当時
英語を教えていた中学生にこの言葉を紹介すると共に、主語を
単数に書きかえさせたり、付加疑問文を作らせたりした記憶が
あります。

また、当時、同じように片腕だけでノーヒットノーランの偉業を成し
遂げたジム・アボットという投手がいて話題になっていました。とん
でもない悪条件を背負っているにも関わらず一切の言い訳を排し
て、ただ自分の目指す目的地に向かって淡々とやるべきことをや
っているわけです。

もっともそういう方々は自分が悪条件にあるという意識など持って
いなかったりしますよね。自分の置かれている現状、運命をその
まますとんと受け容れているわけです。

五体満足でありながら、愚痴や不平不満が知らず知らず常習化
している人もいるでしょう。自分の能力の無さを嘆いている人も
たくさんいるはずです。自分の持っているものでなく無いものに
ばかり焦点がいってしまうのが人間の性かもしれません。

でも、そんな愚痴をこぼしている時に、厳しい逆境の立場にありな
がら一切愚痴もこぼさず、自らの可能性を信じてひたすら汗水流
して懸命に生きている人たちが確かに存在するという事実を思い
出したいものですね。遥かに高い基準で生きている人たちです。

とにかく、大切なことは諦めないことであり、信じぬくことであり
、とことんやり続けることでありましょう。踏まれても蹴られても
何度失敗しても逃げ出しても、諦めずにやり続ければ失敗は
存在しないわけです。

☆お時間ある方はこちらの映像もどうぞ




母の日に思う [徒然日記]

今日は母の日ですね。母の日が特別な日として設定されるのも、
それはそれでいいと思いますが、出来れば、日々「母の日」と思っ
て暮らしたいものです。かりに今日が「最後の日」であっても悔い
が残らないようにを大切な信条としたいわけです。

という意味で、自分が愛する人には「最後だとわかっていたなら」と
いう詩を常に念頭に置き、自分が愛する動物には絵本の「ずーつ
とずつとだいすきだよ」をお手本にして、ここ数年過ごしてきました。



そんなことを言うと何とも偉そうでもあり、よほど日々母親を大切
にしていると思われそうです。実際、日々大切にしているつもりで
すが、それもここ10年のお話です。父親が亡くなってからという
ことですね。

高校卒業後に家を飛び出し30歳になるくらいまでは、むしろ母親
も父親もどちらかと言えば憎んでいましたし、実家とも殆ど連絡せ
帰省もしないという有様でした。

というのも、私の実感として親から愛されたとか承認されたとかい
う記憶がまるでなかったのです。温かい雰囲気に包まれた時間や
空間の思い出がまるでないことが随分と自分を苦しめたものです。

そしてそれが、自分の自殺願望や自己評価の極端な低さに繋が
っていたように思えます。そもそも、まともに話を聞いてもらえる相
手でもなく、子供の頃は理不尽な目に合う度、いつか仕返しをして
やると何度思ったかわかりません。

結果、家庭は崩壊状態。そこに愛情の片鱗すら見いだせなかった
わけです。私は3人兄弟の真ん中ですが、未だに上は許さないと
家に寄り付かず、下は非行に走って行方知らずの状態です。

今思えば、それほどひどい家庭ということでもなく、親は親で仕事
に精一杯で家庭を顧みる余裕がなかったということなのですが、
幼い自分は許せなかったわけです。家族の団欒も家族旅行もない
ことが、自分は不幸だという思いを勝手に増幅させていたわけです。

この世に誕生させてもらい衣食住を与えてもらっていたわけです
から、十分に感謝しなければいけない立場でしたが、全くそういう
気持ちになれなかたのです。ほんと未熟者でした。結局、社会に
出て揉まれ一人暮らしをする中で、ようやく見えてきたもの感じ取
れてきたものがあったわけです。

今はとにかく母親には明るく元気で出来るだけ健康状態を維持して、
長生きさせることが私の一番の使命になっています。従って愚痴や
昔話、噂話も時に付き合い、時にあしらいながら、何とか生きる力を
失うことのないようにリード出切るように心がけているわけです。

趣味のお手伝いや新しい分野への挑戦を促したりと、気を配ってい
ます。最も一番はとにかく健康の維持です。昨年も今年も倒れて
危ない時期があったので、気を抜けないというのが真情です。

学生時代の頃の私なら、そんなくだらんことを使命だなどと言うなと
文句の一つも言いそうです。それには、「まあまあ…」となだめてお
きましょう(笑)。身近な人を幸せに出来ずに、社会貢献も世界平和
も何もないでしょう。先ずは自分自身と恩義ある人を大切にすること
こそが、次なる段階へいく上での大事な礎石であり原点でしょう。

母親と接しながら思うことは、年を重ねれば重ねるほど「日々闘いだ」
ということです。あちこちがたが来て、意欲も落ち気味な状態で、いき
いき溌剌と過ごすことは、よほど心しないとできません。どうしても愚痴
やいい訳、嘆き、不安のオンパレードになります。姿勢も歩き方も漠然
と生きていると醜くなります。

自分が70、80になった時に、人間としての姿態を保ち精神的にも
溌剌と生きていなければと思うわけです。そしてそのためには結局、
望む未来を明確に描きながら一日一日を、今のこの瞬間瞬間を生
ききるしかないと思うわけです。






タグ:母の日

恋と願いと矛盾 [詩の言葉]

     ぼくの心を光でみたす
     こよなくいとしく、美しきひとに、
     天使に、不死の偶像に、
     不滅の幸いこそあれ!
    

         ボードレール(1821-1867)「賛歌」 佐藤朔訳



芥川龍之介の「或阿呆の一生」の冒頭に出てくる、「人生は
一行のボオドレエルにも若かない」という言葉を思い出す人
もいることでしょう。

10代の頃、やけにこの言葉が頭に纏わりついて離れない時期が
ありました。人生に悩んでいたからこそ、心に残ったのかもしれま
せん。また、彼が自ら命を断った命日である河童忌が、自分の生
まれた日だったせいかもしれません。

それにしても、人生がボードレールの詩の一行の価値もないなん
て随分なことを言ったものです。芸術至上主義云々と言われます
が精神的に追い込まれていた時期だったことも多分にあるので
しょう。

さて、ボードレールはフランス近代詩の父と言われ、「悪の華」の
詩人として有名です。何とも耳目を集めそうなタイトルをつけたも
のですが、生前にはさほど評価されなかったようです。

冒頭に引用した詩の一節は、私自身が恋をするとよく読んだ一節
であり、ずうずうしくも贈った(笑)こともある一節です。

ちょっと疲れ気味の時に恋愛詩を読むと、かつての精神が昂揚して
意気軒昂だった瞬間、熱く燃え滾っていた一時を思い起こして力が
湧いてくる気がします。

相手の喜びや幸せを心から願うことが自分自身に大きな力を与え
てくれるわけです。まさに人生の秘訣は与えることなのでしょう。真
の喜びとは他人を喜ばすことであり、他人の力になることであり、
他人の幸せに貢献できることであるというわけです。

だからこそ、自分のことばかり考えていて行き詰ったら、人の為に
何ができるかと考えるといいと言われるわけです。夜回り先生で
知られる水谷修氏も、「どんな小さなことでもいいから人のために
何かしてごらん」と引きこもりの少年に勧めるわけです。

そしてささやかな行為でも感謝されることで、自分が役に立つ存在
だ、生きている価値がある人間なんだと気づくことで次なるステップ
に踏み出せる現実があるのです。

ボードレールの晩年の手記に、彼が少年の頃から晩年にまで持ち
続けたという二つの矛盾する感情についての記述があると言いま
す。それは「生の恐怖と生の恍惚」なのですが、十代の頃の私なら
それはあったなという感じです。

そもそも、生きることは多くの矛盾の中でもがき苦しみながら成長
していく過程でしかないようにも思えます。この身体でさえ、細胞
レベルで考えるなら一方で死に行く細胞がありながらもう一方で
誕生してくる細胞もあるわけです。

となると、私たち人間は「生と死が共存しながら生きている」という
矛盾的存在であるのが実体なのかもしれない、とふと思ったりも
するわけです。







レンズを換える [人間心理]

街を歩く人を見ていると、青いサングラスをかけている人もいれば、
茶色のサングラスをかけている人もいるでしょう。青いレンズ越しに
とらえた世界は青くなるし、茶色のレンズ越しにとらえた世界は茶色
になりますね。

考え方や物事を見るクセもまったく同じです。楽観的なレンズを通し
て考えた場合と悲観的なレンズを通して物事を考えた場合ではまっ
たく違ってきます。ただ、本人は自分がそうしたレンズをかけている
ことには気づきません。

              「ふりまわされない」 信田さよ子 ダイヤモンド社



著者の信田氏が40年間にわたるカウンセリング経験から、楽に生きる
ために何が必要かということを7つの物語を通して、悩める人に伝えよ
うとしたのが本書です。

彼女は真面目な人ほど日常生活に染みついて私たちを束縛している
常識「これが正しい」とする常識にふりまわされて、行き詰っているこ
とがいかに多いかと力説します。

冒頭の引用文では、いかに私たちは自分勝手なレンズを通して世の中
を見ているかというわけです。その人なりの勝手な思い入れのレンズを
通して物事を眺め、生きているのです。

著者が最も問題とするのが「これが正しいというレンズ」です。一番始め
の物語にでてくる相談者は「誰にも頼らない、甘えない」ということが正し
いとする価値観にがんじがらめになって苦しんでいます。

そこで著者は正しいか否かという基準ではなく、他の基準を提案します。
それはBenifit か Costかということ、つまり損か得かという基準です。
正しいかどうかというレンズではなくて損か得かのレンズに変えろという
わけです。

損か得かと言われると、何か嫌だなあと思う人もいるかもしれません。
ですが、ここで著者が意図するところは、どちらがスムーズにより快適
に生き易いかということでしょう。仕事が辛くて苦しい時に甘えも依存も
悪だという正否の価値観よりも、

どちらが自分が生き易いか どうかという判断基準を
Benifit か Costか、損得の基準としているのです。

そもそも絶対的な基準なんて存在しないと思うわけですが、世の中に
何となく行き渡っている価値観を絶対視して苦しんでいる真面目な人
がたくさんいるということです。

上司から言われた「甘えるな、人に頼るな!」という言葉を杓子定規に
捉えて、自分を追い込んでいる人がいるわけです。このブログでも既に
何度も綴ってきましたが、甘えも依存も悪ではないわけです。

一律に、依存は悪だとか依存は善だとか言うべきことではありません。
全ては条件次第であり、TPO(時・所・場合)によるわけです。

大体、私たちは衣食住全てを他人に依存している人が大半でしょう。
自分が身に付けている衣服に一体どれだけ多くの人の労働が注がれ
ていることか考える人は殆どいないはずです。食の問題も住の問題も
同様です。一人で誰にも依存せず、甘えることなく生きていけることな
どあり得ません。

「甘えや依存はよくないこと」というのは、あくまでも一面の真理にしか
過ぎないわけです。ですが、その偏ったレンズで物事を判断して自分を
苦しめている人がたくさんいるというわけです。

だからこそ、レンズを換えましょうという提案ですね。結局のところ、視点
を変えるということでしょう。同じ現実・出来事に出会ってもどういうレンズ
を通して見るかで見える世界はまるで違ってしまうのですから。

著書は、だからこそ、自分がどういうレンズで現実を見ているのかという
ことを知ること、その上で自分をふりまわしている「これが正しい」という
レンズを捨てろと勧めているのです。Value Freeに生きろと、つまり、
自分をふりまわしてきた価値観から自由になれ!
と言うわけです





ハチドリのひとしずく  [挑戦]

南米のアンデス地方の先住民族に伝わる、小さなハチドリが主人公の、
とても短いお話が日本に紹介されたのが2005年のこと。その後、この
お話はじわじわと静かに広まっているようです。概略次のようなお話に
なります。



森が燃えていました
森の生きものたちは われ先にと 逃げて いきました

でもクリキンディという名の
ハチドリだけは いったりきたり
口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは
火の上に落としていきます

動物たちがそれを見て
「そんなことをして いったい何になるんだ」
といってあざ笑います
クリキンディはこう答えました

「私は、私にできることをしているだけ」

「ハチドリのひとしずく 」 辻 信一監修 光文社刊 2005年

たとえ非力であろうとも、他人から無駄な骨折りだと嘲られようとも、
自分なりに未来を信じてやり続けるしかないことがあります。

速やかに目に見える結果が伴わないと、諦めて直ぐに投げ出してし
まうことはままあるでしょう。社会の巨大な力、権威、因習など風穴
を開けようと踏ん張るのは容易ではありません。

既成概念、既成事実を打ち破らんとする時に、所詮わたし如きがどう
頑張っても世の中なんて変わらないと、最初から闘いを放棄してしま
うこともあるかもしれません。

そんな時思い出すのが、パール・バック女史(1892 - 1973)の言葉で
す。彼女は重い知的障害を持つお子さんを懸命に育てながら、代表
作「大地」などを著し、1938年にアメリカ女性として初めてノーベル
文学賞を受賞しました。

彼女は言います。「まっ先に自分が無力だと考えさえしなければ、
人間は誰ひとり無力ではないのです。」と。



無力感に苛まされた時に、随分と救ってもらった言葉です。誰にでも
出来る事はあるわけです。ハチドリのひとしずく に当たることが誰に
でもあるわけです。どんな小さなことでも、その意味・価値を信じてた
とえ一人でも闘い続けることが大切でしょう。

先日、友人にこの話をしたら、彼はこう言いました。
「最初はハチドリのひとしずくを馬鹿にしているかもしれないけど、そ
れをやり続けると、他の動物、象とか熊とかが自分も手伝おうという
気持ちになるんじゃないのかな」と。

最初は取るに足らない小さな力が徐々に伝播していって、気づいたら
ある時巨大な力となって大きな変革の嵐を起こしていたという感じで
しょうか。まさに、バタフライ効果と言われる現象が起きうるわけです。

中国で一匹の蝶が羽ばたくと、やがてはアメリカで嵐を起こすことに
繋がるというこの理論も、1960年にある学者が発表した時は荒唐
無稽なお話だとまるで相手にされなかったと言います。

近年は再評価されているようですが、自然現象も社会的出来事も
人間の精神も、全てにおいて密接に繋がりあって変化発展している
からこそ、摩訶不思議とも思えることが現実に起き得るわけです。

さて、私が「ハチドリのひとしずく」を思う時に、連関して思い浮かぶ
言葉の流れは以下です。あくまでも勝手な思い入れです。


  ハチドリのひとしずく ⇒ バタフライ効果

  ⇒ まっ先に自分が無力だと考えさえしなければ、
          人間は誰ひとり無力ではない

  ⇒ 一人の人間を救うものは世界を救う(シンドラーのリスト)

微力であっても非力であっても愚かと思われようとも、自分の信じる一撃を
堅固な壁に向かって振り下ろし続け、自分なりに未来を見据えて歩き続け
ることが大切なのでしょう。



平静を求める祈り [言葉]

神よ、われにあたえたまえ、
変えられないことを受け入れる心の平静と
変えられることを変えられる勇気と
それらを区別する叡智とを

         ラインホルト・ニーバー「平静を求める祈り」



どうにもならないことは、じたばたしない。
受け容れざるを得ないことは、身を処し潔く受け容れる。

どうにか出来る部分と、どうにもならぬ部分をしっかりと
峻別して、こころ平静にして事態を正確に捉える。

他人の感情・言動は如何ともし難い、思案の外なり。
しかし、自らの感情・言動は制御し得る。

また、死というものは遅かれ早かれ、万人に等しく訪れる。
一方、その生は自らの選択と決断に委ねられ千差万別だ。

全ては自分次第なのだ。その厳しい託宣に身震いしながら、
自らの生を自らの責任で選択・決断・行動していくなかで
自らの望む人生を創り上げていくしかない。



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